鴉の境界線 赤ちゃんの境界線
深瀬昌久という写真家の作品集『鴉』の一部をネットで見たときから
なんとかいい値段で購入できないものかと探し回りだしたのが去年のいつだったか
思い出せなが、ほんの数ページですっかり参ってしまった私は
とにかく中身が見たくてソワソワしていたのだけれども値段の相場が
12000円~20000円と高く二の足を踏んでいたところ、同じく写真家の渡部さとるさん
が『鴉』の特集をYouTubeでくんで下さったおかげで一先ず内容は把握でき
喜んでいたのだが渡部さんのはなしがなかなか衝撃的だった。
深瀬昌久は自身の家族やカラス、猫といった題材を通じて「私性」と「遊戯」を追求した写真家とあるが、その特徴として「撮る者と撮られる者が同じものとして存在する」
主客未分という仏教用語を使い指摘したのだ。
カラスを撮っているが、自分自身を撮っている妻を撮っているが自分自身を撮っている
我も彼もないという状態。
興味深かったのは被写体として重要な役割を果たしていた妻洋子さんの言葉
『私をレンズの中に見つめ、彼の写した私はまごうことない彼自身でしかなかった』
妻とはいえ被写体にも見透かれるほど露骨だったのか。
二度の結婚と二度の離婚をしたことからも被写体にとってはなかなか強烈な孤独感が
あった撮影(と恐らく私生活)ではなかったかと想像するのだけれどそれがどう作用するのか、作品自体は凄まじい。
渡部さんは続けて、生後6ヶ月~8ヶ月頃まで誰もが自分と外界を分けていない時期を経たのち、鏡を見て自分だと分かる鏡像段階により主観が分かれるというような話を聞くうちに、私は以前読んだ脳科学者のジル・ボルト・テイラーの体験談を思い出した。
脳科学者ジル・ボルト・テイラーは37歳の時に自らが脳卒中に倒れ自身におこった身体の変化を詳細に観察しながらリハビリに励み復帰した人。
脳卒中をおこし頭と体がいう事を聞かない状態でさぞや苦痛に終始苛まれていたのだろうと本を読み進めていくと意外な一文が飛び込んできたのだ。
『わたしは人生の思い出から切り離され神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。
むりやりとはいえ、家路をたどるような感じで心地よいのです』
自分の身体とそれ以外の境界線がなくなったこの描写が、深瀬昌久さんの作品や
主観を知らない赤ん坊それら全ては主客未分なのではないか、アプローチは違えど
かなり近い所まで接近しているのではないかと思わずにはいられなっかった。
しかし深瀬さんは家族は去り、転落事故から作家活動は途絶え素晴らしい作家ではあったが不運の作家として終わった。
境界線を知らない赤ちゃんは鏡の存在をじきに知り人間として生きるし、脳卒中に倒れた脳科学者はリハビリをして元の社会へ帰って行った。
主客未分の状態は人間を超越した幸福(のようなもの)とも言えそうだけれど
人の輪郭から逸脱していて長くは続かないのかもしれないと思った。